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2011年5月

2011年5月20日 (金)

養護老人ホームの移転改築につきまして

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私たちは今、聖園老人ホームの建て替えに取り組んでいます。鹿児島県の補助金を平成23年度からいただいて、施設を造ろうと取り組んでいます。
  聖園老人ホームは、後ろに紫尾が嶺、前方に大島・桑島の浮かぶ東シナ海、右手に長島・天草のうつくしい島影が見わたせる眺望絶景の丘にあり、また近くの阿久根小学校の子供たちの元気な声が聞える極めて理想的な場所に建っています。
  ここを引っ越してどこに行こうと言うのか!この美しい眺望を知る人々はこの計画をきっと危ぶみ、批判されることでしょう。まことにもっともです。
  私どもは、この丘に負けぬ眺望をもち、施設造りの条件を備えた土地を2年かけて探し回りました。この丘の眺望に勝るところは皆無でした。施設造りの条件を備えた土地もやっと見つけました。阿久根市西目地区の春畑住宅の一画です。昔、阿久根市の大きな冷蔵庫の会ったところです。ここに移転することを決定いたしました。  なぜ、そこまでして移る必要があるのか?大事な質問です。

  聖園老人ホームの歴史と立地
  聖園老人ホームは昭和38年、阿久根市の丹宗市長のお願いで、阿久根市の提供した波留550番の丘に、レデンプトール修道会ミュンヘン管区(ドイツ)からの基金で建設されました。完成後、神奈川県藤沢の聖心の布教姉妹会が運営を引き受けてきましたが、平成20年、シスター方の諸事情より鹿児島カトリック司教区(郡山健次郎司教)の社会福祉法人善き牧者会に移譲された施設です。
  建替えの必要性
  善き牧者会ではこれまでと変わらず、利用者の人権を尊重しながら運営に努めていますが、私どもはこの施設を新しい土地に立て替えて移転することを決意しました。理由は以下の通りです。
 
①昭和38年の基準による建物は、居室・廊下が狭く、車椅子一台で廊下は塞がります。高齢化、重症化に伴って車椅子20台や歩行器6台に増えて、職員は通り抜けることができません。火災や地震が起きたら、大惨事は免れようがありません。まことに危険な状態です。
② 昔の施設ですから8畳間、3人が基本です。ベッド3つ入れて、そこで3人が暮らしています。多床室ゆえのトラブルもあり、プライベートがないばかりか、これでは利用者の人間的尊厳が守れません。
③ 施設は48年経った老朽家屋で、施設・備品の修理に多額の費用がかかっています。設備・備品も取り変えるべき時期に至っています。
   
  土地決定(阿久根市の協力)
    私たちは12の土地を検分した結果、阿久根市所有の西目・春畑冷蔵庫跡地を購入しました。阿久根市には多くのご協力を頂きました。お礼申し上げます。
    この地に施設を造り、未曾有の高齢社会の問題を、私どもが先頭にたって受け止めて行かなくてはなりません。当面、以下の6点を考えていますが、どうぞ、お教えください。
   
① 地域密着型施設(デイ・サービスなど)を導入し、福祉活動の拡大を図る。
② 認知症の研究に取り組み、認知症の未然防止、進行抑制、回復に取り組める施設にする。
③ 地域高齢者の見守り、行事への招待などを通して、地域住民との交流を促進する。
④ 高之口・西目地域の避難所として受け入れ態勢を整える。
⑤ 地域との交流を通して、施設が地域の精神的拠点として定着するよう努める。
⑥ 文学・美術・音楽の文化発信基地として、阿久根市民に生涯学習の場を提供する。
   
    これから、まだ多くの厳しい階段を上ります。入札・着工までに多くの曲折が予想されますが、今後は、長きにわたる返済などをいかにして乗り越えていくかが私どもの課題です。
    皆様のご理解とご協力がいただけますよう、どうか、よろしくお願い申し上げます。
   
   
                             以上 聖園老人ホーム施設長 川涯 利雄

2011年5月16日 (月)

阿久根の夕陽

阿久根の夕陽をぜひ皆さんにお見せしたい。
涼風の吹き始める九月末になると、阿久根の海の夕陽はことに美しくなる。
大島・桑島・小島・元之島など多くの島々が浮かぶ阿久根から、文字通り島かげの長い長島・天草に続く東シナ海の大パノラマはそれだけで、日本の絶景百選に入れていい風景だが、秋になると、それに夕陽の美しさが加わる。
夕べの六時過ぎるころ、太陽は真っ赤に熟した沈黙の球体となる。
海から絶えず上昇する薄い水蒸気に包まれて、太陽の光を合成する七色の光の多くが吸収されて、波長の長い赤い色だけが通過してわれわれに見えるからである。
この沈みゆく夕陽の深い赤をいかなる画家が画布に再現できるだろう。
海辺に腰を下ろし、膝を抱いて深い沈黙のなかでこの美しい夕陽に向かっていると、生きるとはどういうことか、多くの教えが自己のうちに自然に沸いてくる。

生ききる

私の机から阿久根大島が見える。今日は快晴、海の紺青が輝いている。
 わが聖園の丘から直線3キロくらいか、島の中央に森を抜く数本の竹の穂のようなものが見える。
 実はあれは松の大木で、実際、その下に立った人はその大いさに息を呑むだろう。五百年、いや、六百年は生きて来たに違いない。周りを森に囲まれているせいか、どの松もまっすぐ伸びて、その頂は揺れながらかすかに天を掃いているようだ。見事というほかない。堂々たる命の営みである。
 周りに数本の大木が倒れている。白く朽ちたもの、倒れて間のないもの。赤土を掴んだくろがねの根が天を向いているもの。すさまじい暴風雨によって、一気に倒されたのであろう。
 立っている松も見事。倒れた松も見事だ。すべてを運命にゆだねた命の見事さ。大島を眺めながら「生ききる」ということを考えている。

ぼんたんエッセー がオープンしました

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